影響力のある活動者さんが、不快な発言を受けた際の対応について ~私の考え~

影響力のある活動者さん(配信者・Vtuberなど)が、不快な発言を受けた際の対応について、あれこれ考えた記事になります。

記事を書いたきっかけ

活動者さんは、例えばXやYoutubeのコメントなどで、不快な発言を受けることがあると思います。

その際に、活動者さんの中には、不快な発言をした特定の個人ユーザーをリポストしたり、スクリーンショットを掲載したりなど、拡散行為による対応をされる方もいらっしゃると思います。

私が今まで、そのようなケースのにおける顛末を見てきた経験から、影響力のある活動者さんは、そのような対応よりも、より健全で建設的な方法があるのでないか、と思うに至ったため、この記事を書きました。

 

前提

  • 基本的には、活動者さんの行為よりも、活動者さんに不快な発言を届けようとするユーザーの行為が、問題のきっかけとなるケースが少なくない、と考えています
  • 今回は、悪意に基づく誹謗中傷ではなく、不快な発言(好き嫌い、ファンへの対応差による嫉妬発言など)を対象に考えます

結論

不快な発言を受けた際には、特定の個人ユーザーを、リポストやスクリーンショットの掲載などで、拡散的対応(便宜的に「直接拡散法」と名付けます)をするのではなく、以下のような段階的対応(二段階対応法と名付けます)をするのが良いのではないかと考えます。


二段階対応法

  1. 匿名化し、不快な発言内容を要約や言い換えなどで加工したうえで、活動者さんの思いや考えを伝える
  2. それでも改善が見られない場合にミュート・ブロックによる対応をする

理由

影響力のある活動者さんが不快な発言を受けたとき、その対応の手段や方法がとても重要になると考えているからです。

直接拡散法よりも、二段階対応法のほうが、伝達内容の質をそれほど損なうことなく、より穏やかに伝えることができるため、長期・全体最適になっていると考えます。

2つの方法のメリット・デメリットを比較して、具体的に確認していきましょう。

 

直接拡散法

メリット
  • 直接発言者へ思いを届けることができ、啓発や改善による抑止効果が期待できる
  • 感情的発散効果が比較的高い可能性がある
デメリット
  • 影響力の差により、集団による非難や、一部のユーザー・ファンによる過激な言動(脅迫やドキシングなど)などを招き、思わぬ副作用や反動が起こる可能性がある
  • 結果、相手が強い心理的負担を感じたり、恐怖心や孤立感が先行して啓発や改善、相互理解の効果が期待しにくかったり、逆効果になるリスクがある
  • 予見可能性や相当性、必要性などの観点から、間接的に活動者が責任を負う可能性がある

このようなデメリットにより、活動者やファン(コミュニティ)の双方にとって、持続的で健全な活動に繋がりにくい側面があると考えたため、二段階対応を推奨したいと思っています。

 

では、二段階対応法はどうでしょうか。

二段階対応法

メリット
  • 匿名化と発言内容の加工により、不快な発言者個人を特定しにくいため、発言者個人の心理的負担を相対的に軽減でき、恐怖や孤独感による先入観を抑え、啓発や改善、相互理解効果が期待できる
  • 不快な発言の質・程度(前提で述べた嫉妬、好き嫌いなど)と比べて、相応かつ倫理的に妥当(やりすぎでない)な対応と見做されやすい
デメリット
  • 匿名化、加工化することで、対象や内容が曖昧になり、想定した対象に伝わりにくくなる可能性がある
  • 関係のないファンやユーザーに「もしかして自分のことか?」と余計な不安を与えたり、気遣いをさせる可能性がある
  • 不快な発言者が、継続的に活動者の発信を確認していることが前提となり、言いっぱなしで離れる人や野次馬には効果が薄い
  • 単純に労力や時間などが掛かる

ただ、このようなデメリットはありますが

  • 発信内容の工夫でカバー可能
  • 不快な発言は注目行動でもあるため、継続して確認するユーザーのほうが多数派である

と思います。

したがって、両方を比較すると、二段階対応法のほうが、より活動者とファン(コミュニティ)双方にとって、持続的で健全な活動に繋がりやすいと考えます。

留意点や限界

留意点、補足や、二段階対応法の限界などについて述べていきます。

提案の意図

この提案は活動者さんへ「何も言うな」と言いたいわけでも、活動者さんの思いに対して「お気持ちというレッテル貼りをしたい」というものでもありません。むしろ、思いや考えは伝えるべきだと思っています。

ただ、その方法を少し工夫することで、より穏やかで、実りある時間・空間を共有できるようになるのではないか、ということを意図したものです。

動機と効果の関係

活動者さんの中には、耳の痛いことも伝えることが誠実さであり優しさである、とお考えのお方もいらっしゃると思います。それについては一つの大切な考えであると、私も思います。

ただ、動機が純粋に優しさや誠実さであっても、直接拡散法のような対応だと、ネット世界の現状に鑑みると、意図した効果を発揮しにくい場合があると感じます。

理由はこれまで述べた通りで、事態が複雑化し、制御が難しい状況が発生する可能性があるからです。

自身の伝えたい思いと、少しの配慮の両立をさせることで、その優しさが届きやすいものになるのではないでしょうか。

不快発言のグラデーション

前提に書いた通り、不快な発言を取り上げて持論を述べていますが、質・程度にはグラデーションがあり、それによって妥当な対応は変わってくると思います。

例えば、活動者さんの尊厳やプライバシーを侵害しているとも捉えられる場合は、直接拡散法のような対応を取られたとしても、社会通念上妥当な対応であると見做されたり、発言者の自業自得であると見做される可能性は高くなると思います。

現実的・実務的観点

例えば誹謗中傷寄りの発言だったとしても、示談の実施や法的措置を講ずるのは気軽にできるものではなく、時間や労力、さらにはコストが掛かる場合もあります。

したがって、現実的・実務的観点によっては、拡散行為が妥当だと見做される可能性もあり得ると思います。

また、Xやアーカイブコメントなど、静的状況を想定した内容を書いていますが、例えばライブ配信などの動的状況においては、本記事による対応が最適であるとは限りません。

おわりに

結局、個別具体的ケースによる

不快な発言なのか、誹謗中傷なのかの線引きは、主観的要素もどうしても関係してきます。

また、例えば不快な発信の方法(ハッシュタグの有無、リプライか、リポストかなど)や、常習性などを含めた対応に至るまでの経緯・文脈などによっても、対応の妥当性は変わってくると思います。

ただ、小さな工夫一つによって、相手に与える負担を大きく減らしつつ、自分の気持ちを正確に伝えられる可能性を頭の片隅に入れておいて損はないのかな、と思います。

結局のところ、月並みな結論ですが、個別具体的なケースによるということにはなってしまうのですが…。

今回取り上げた問題においても、様々なトレードオフ関係が発生しており、あらゆる状況において万能な対応というものはないのだと思います。本記事も、あくまで一個人の経験と考えに基づく意見に過ぎないもの、と捉えていただけると幸いです。

本記事の提案が、活動者さんとファン(コミュニティ)の双方にとって、持続可能な活動の一助となることを願います。

『碧天に尽き』MV鑑賞メモ

こちらのMVについての、個人的鑑賞メモです。


www.youtube.com

※本記事の歌詞掲載について

本記事は、現時点での権利登録状況から、法的な適切性に鑑み、歌詞の全文引用は避け、キーワードへの言及に留めた読み解きとなります。万一、至らぬ点や問題がございましたら、お手数ですがご連絡いただけますと幸いです。速やかに確認、対応させていただきます。

題材

本楽曲は、中国の詩人、李白の漢詩『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』をモチーフにしていると考えられます。

その漢詩の一節に「孤帆遠影碧空尽(こはんえんえいへきくうにつく)」とあり、楽曲名や世界観と高い親和性があるからです。

内容は以下の通りです。

古くからの友人が西にある黄鶴楼に別れを告げ

春霞の美しい三月華やかな揚州に下っていく

はるかかなたにポツンと見える帆影は青緑色の空間に飲み込まれ

長江が天の果てに流れていくのだけが見える

chugokugo-script.net

本楽曲では、主人公が李白、ヒロインが孟浩然(友人)のポジションですね。

漢詩のテーマは「友人と別れることの悲しみ」のようです。

また、友人である孟浩然も『春暁』で有名で、本楽曲の雨上がりを想起させるような内容であり、関連していると思われます。

共通の表現方法と意味

順を追ってMVを読み解いていく前に、全体に共通する表現方法と意味について、気になったポイントを述べます。

黄金色の英語の意味

MVでは、日本語歌詞の背後に、黄金色の英語の綴りが表示されている箇所があります。

これは何を意味しているのでしょうか?

恐らく、二人の思い出により、心の琴線に強く触れた部分に表示されているのではないか、と思われます。

なぜなら、かつて孟浩然と過ごした思い出深き場所、黄鶴楼にという字が入っているからです。

また、中国の神話に出てくる五神(青龍・玄武・白虎・朱雀・黄龍)はそれぞれの方角と中央を司りますが、李白が居残った西(黄鶴楼)と、孟浩然が旅立った東(揚州)の真ん中、つまり中央を司るのは黄龍です。

そこにも黄の文字が入ってます。

以上の理由から、黄金色の英語の綴りは、友人と二人で過ごした思い出が関係していると考えるのは、それなりに妥当なのではないかと思いました。

歌詞の向きの意味

本MVにおける歌詞は、縦書きの箇所と、横書きの箇所があります。

これは何を意味しているのでしょうか?

恐らくですが、時間意識の方向を意味していると考えられます。縦書きは過去横書きは現在です。

理由ですが、モチーフとなった漢詩が縦書きであり、昔を想起させるから、と言えます。そして、横書きはそれより新しく、現代的な印象があります。

例えば、友人とともに過ごした思い出の部分は、黄金色の英語の綴りとともに縦書きですし、高台から街を見下ろすシーンは現在見ている景色であり、横書きです。

ただ、自信はあまりありません。もしかしたら主観と客観の違いかもしれませんが、あまりしっくり来ていません。

ローマ字の有無

日本語歌詞のすぐ傍に、小さく添えられているローマ字も気になりました。

これは何を意味しているのでしょうか。

恐らく、ローマ字なしが拡散(分散)ローマ字ありが集中、という区別なのではないでしょうか。

例えば、ローマ字なしの部分は、雲や霧らしきものが晴れるような演出があり、心の解放を想起させます。逆にローマ字ありの歌詞は、認識の対象へ焦点を当てているような内容に見えます。

ただ、ローマ字の有無の意味は一番時間を掛けて考えましたが、自信がないです。

歌詞・MV読み解き

順を追って、気になるポイントを見ていきます。

第1連(1番)

最初の蜃気楼

横書きなので「現在視点」と見られます。

注目すべきは「蜃気楼」の部分で、唯一ローマ字がです。

悲しみの青を表現していると考えるのは自然ですが、特に友との別れが原因であることを強調しているのだと思いました。

なぜなら、孟浩然は黄鶴楼から見て、東の揚州へ旅立ったわけですが、東を司る神はだからです。

煌めく

「煌めく」のローマ字は、ここでは白色です。
また、ローマ字ありですので、特にそこに焦点を当てているのでしょう。

軌跡

「軌跡」の部分には、何度目を凝らしてもローマ字が見当たりません。そのあとの部分にはローマ字があります。

これはどういう意味でしょうか。

もしかしたら、まだ軌跡≒過去にあまり焦点が当たっておらず、執着するだけで、ぼんやりとしか向き合えていない、ということを意味しているのかもしれません。

水飛沫

水飛沫は水溜まりの水跳ねだと思われます。

なぜなら歌詞のすぐ横にある大きな〇は、水溜まりの波紋に見えるからです。

そして水溜まりは主人公の心を表していると思われます。

理由は「水飛沫」の部分のフォントは、サビの部分のフォントと同じで、恐らく心の昂ぶりを表現しているのだろうと考えたからです。

写る

映るではなく「写る」である点は重要そうです。
映る、と違い、光の反射ではなく、コピーです。
光の要素はまだないか、とても弱いということかもしれません。

黄金色の「race」

「写る」と「駆け抜けた」の背後にある英語が気になります。どちらも黄金色の「race」が表示されていますが、これは、競争の意味にも、疾走の意味にも、両方の解釈ができそうです。過去と現在がせめぎ合っているという意味もあるのでしょうか。
また「駆け抜けた」の背後の英語が「raced」と過去形ではない点も重要そうです。

廻るガラス玉

廻るガラス玉、とは何を指しているでしょうか。
候補は5つあります。

  1. 雨上がりの雨粒です。でも廻るという感じはしません。
  2. 眼球です。廻る、とは違うかもしれませんが、自然な発想だと思います。
  3. カメラのレンズです。平たいので球体ではないのですが、調べてみると、専門用語として玉と呼ぶそうです。焦点を合わせるような描写も多いことから、この説は有力です。
  4. 地球です。空が透明という描写もあり、地球そのものをガラス玉と捉えている、とする考えです。ですが、直前の木々とのスケールが乖離しすぎていて違和感がありますので、多分違います。
  5. ラムネのビー玉です(一番好きな説です)。ヒロインは半袖姿で、思い出の季節は恐らく夏頃でしょうし、何よりラムネ瓶の色が碧だからです。
    それで美しくまとまりそうだと思いましたが、横書きで現在視点である点と、陽が映るのはどちらかと言えば瓶の中のビー玉ではなく瓶なので、恐らく違います。

結論は、眼球やカメラのレンズの比喩と考えます。

注目ポイントは「心」の部分で、そこだけローマ字がないように見えます。まだ、心をぼんやりとしか捉えられておらず、焦点が合っていない、と解釈します。

サビ

サビの歌詞は、装飾がなにもありません。
躍動感のあるフォントや、激しいモーションで、心の昂ぶりが表現されていて、そのために装飾がない、のだと思います。

また、縦書きと横書きの配列が混ざり、どちらとも取れるため両方の意味が含まれているのかもしれません。

そして、ヒロインの顔がアップで映っています。
顔側が影になっていることから、これは冒頭で背中を向けているヒロインの顔を覗いているのではないか、と思われます。

ここの意味は恐らく、天という漢字の意味が関係しており、実は顔ではなく頭や目を見ているのではないでしょうか。もしかすると、中国の自然哲学『五行思想』の五行色体表などが関係しているかもしれません。未解明であるため、保留にします。

サビの煌めく

「煌めく」のローマ字は、冒頭のものと異なり黄金色です。

第2連(2番)

冒頭の特殊性

このパートはかなり特殊で、決定的に重要な箇所だと思います。

何故なら唯一、それぞれの歌詞の左上と右上に「lyric1・2」と表示されているからです。

これはどういう意味でしょうか?

まず、lyricの近くの四角マーク□は、カメラのディスプレイに映る記号を連想させ、カメラのレンズで世界を覗いているかのような、そんな描写のように見受けられます。

そして、前半の現象により、主人公の中の何かが変化し、ようやく現前の存在に意識が向き始めた。だからこその、まだなにも意味付け、価値付けがされていない、ただの記録データであるかのような、そのような演出なのだと解釈しました。

サビ前

このパートに入る時に聴こえる効果音が気になりました。
実は1番の時も「雨」という文字の拡大とともに同じ音が鳴っていたことに、後になって気付きました。
この音は何でしょうか。恐らく、この音は水溜まりに水滴が落ちる音で、水溜まり≒心に何らかの変化が起きた、ということを意味しているのではないでしょうか。

また、1番では、同じサビ前のパートは縦書きでしたが、2番では横書きになっています。現在と、そしてその次の未来へも、意識と心を向けることができるようになってきたことを意味しているのだと、考えました。

第3連

最後のサビ~

ポイントは、やはり最後の「輝いてた」の部分です。
背後にある英語が「was shining」なのが、とても素敵です。過去形で現実・現在との距離を表しながら、同時に進行形で今ここで起きているかのような臨場感を表現されています。さすがです。

そして、二回目の該当箇所には歌詞が表示されていません。これは、本記事の冒頭で紹介した漢詩の形式「絶句」であり、日常語の意味で表現した、という意図のように感じました。

最後にも水が滴るような音が聞こえます。雨上がりの水滴の音は、実は最初から存在していたけど、聞こえるようになった、とも解釈できそうですね。

未解明点

ここまで、個人的解釈を述べてきましたが、まだまだ未解明の点が数多く存在します。いくつか例示します。

歌詞の周りの白線

日本語歌詞の周りには白線が表示されている箇所があります。本数や位置も、歌詞によって変化しています。意味の候補はいくつか浮かびますが、未解明です。

ローマ字の配置

ローマ字が表示されている位置の意味です。左上、右上、左下、右下に表示されます。この点も未解明です。

五行思想の関連

中国の自然哲学、『五行思想』は間違いなく本楽曲において重要な要素だと思いますが、まだまだ不勉強なため、未解明な点が多いです。

例えば、外の明るさや季節、太陽の方角から、ヒロインが向いている方角を調べたりして見ましたが、まだはっきりと何を意味しているのか、答えを述べるまでには至っていません。

(おまけ)ジャケット

こちらInstrumental ver.の動画のジャケットです。

www.youtube.com

ヒロインを中心に光の環が広がっています。美麗さにばかり目が行きがちですが、色々と隠れた要素が読み取れそうです。

例えば、光の環は、何に見えるでしょうか?何かのレンズにも見えますし、他にも、時計やコンパスにも見えないでしょうか?

そして、9時と3時の位置に、やたらと目立つオレンジ色の花や建物があります。恐らく花は金木犀ではないでしょうか。それとの対比の意味での建物、のように見えます。

ヒロインが持っている傘も、時計やコンパスの針に見立てられそうです。

このジャケットも、本楽曲・MVの読み解きのヒントになりそうですが、未解明です。

『碧天に尽き』とは何だったのか

李白の漢詩にある”碧空”ではなく”碧天”であることや、”尽き”という言葉の意味をヒントに、本楽曲のメッセージを考えてみました。


友との悲しき別れの後、現在という景色はむなしく写る。これも、一面の真実たり得るが、ただそれだけではない。
青と緑の間、碧のように、現在と過去も、明確に線引き出来るようで、出来ないような、グラデーションのある概念とも見做せるはずだ。

透明で空虚に見えていた現在も、記憶に光を当ててみれば、見えずとも“既にそこにあった”思い出達に当たって散乱し、鮮やかな色を浮かび上がらせる。

だからきっと、現在は、そして未来も、からっぽ(空)なものなんかじゃない。「あの頃はよかった」と思うような過去も、現在・未来と繋がり、溶け合っている(天)のである。※海も雨も天も「あま」と読み、概念の区別が昔は曖昧だったことから)
その思い出は、消えゆく(尽)だけでなく、心の中で広がり、満たす(尽)存在でもあるのだ。

それならば「あの頃は”あって”よかった」のだと、このようにも考えられはしないだろうか。

本楽曲テーマの個人的解釈

より大きなテーマ、メタメッセージとして、どのような意味が込められているのか、考えてみました。

 

「この世界は、良(善)い⇔悪いとか、嬉しい⇔悲しいとか、単純な二元論、二分化で捉えきれるような、そんな枠組みにおさまるような世界ではなく、もっと多様で複雑な、豊かな捉え方、定義付けができる世界でもあるのではないでしょうか?」というメッセージだと解釈しました。


本楽曲・MVでも、過去と現在、科学と文学(哲学)、田舎と都会、東洋と西洋、などの対立軸を意図したと思われるような表現が見られますが、その間(あわい)があるということなのだと思います。
単純なようで複雑なような、閉鎖的なようで開放的なような、決定論的なようで自由意志的なような、存在的なようで認識的なような、その間(あわい)のような、世界なのだと思います。
それと同時に、それらの中庸であり、中道でもあり、止揚でもあり、創発でもあるような、それらが多層的に組み合わさっているようにも思えます。

そういう見方もあるのだと、いつか必要になるかもしれないその時のために、頭の片隅におさめておこうと思いました。
そうすれば、気付けていないだけで既にそこにある大切なものに、気付けるようになるのかもしれません。

終わりに

解釈違いな点も多いと思いますし、まだまだ本楽曲・MVに対しての解像度が低いとは思いますが、ご容赦ください。

 

個人的に一番鳥肌が立った瞬間は、こうした読み解きを通して、主人公の追体験をしていると感じたときでした。

どういうことかというと、最初はMVを「はえ~、キレイだなー」と思ってただ見ていただけでした。

しかし「これは何だ?どういう意味があるんだ?」と歌詞や演出について色々と考え、意味を見出していくなかで、まるで光が降り注ぎ、眼前の世界の見え方が変わったかのような、そんな感覚になったということです。
楽曲・MVの中の、既にそこに存在していたものに気付くという体験を、図らずもしていたということです。

 

作品の世界観を、繊細に、丁寧に表現した歌声も、和・東洋・西洋が調和したようなメロディーも、現実と空想の間のような映像や演出も、どれも本当に美しいです。

一楽曲・MVに、こんなにも美しく、秩序立った世界が創られ、内包されていたという事実に、驚きと感動と尊敬と畏怖の間のような、そんな感情を抱きました。

素敵な楽曲・MVとの出あいに感謝致します。ありがとうございました。

資源の希少性と「足るを知る」経済 ~3.11から15年を経て~

経済学の勉強をしようと、教科書を開きました。

どうやら経済学では「資源の希少性」を原理の一つとして掲げているそうです。
多くの主流派経済学の教科書にも、最初のほうによく書かれています。

いったん受け入れて、読み進めていけばよいのだと思うのですが、どうにも引っ掛かってしまいます。
何故なら、資源の希少性は、無限の欲求・欲望を前提にしているからではないのか、と思うからです。

現実の人間、生物の欲求や欲望は、無限ではありません。途中で飽きるし、ほどほどで満足するはずです。
必要概念で資源を捉え直すと、実はそれなりに豊富である可能性もあるのではないか、と思いました。

こんなことを考えていると、そこそこ時間が経過しますし、前提に納得ができないため、勉強の意義を見出せず、結局モチベーションを維持できずに、途中で勉強をやめてしまいます。

なんとなく尤もらしいことを語り、GDPを増やすことが経済成長なのでしょうか。
本当の豊かさとは何なのでしょうか。
そのために、どこまで原発が必要なのでしょうか。

あれから私たちは何を学び、どう変わったのでしょうか。

【読書感想】『カウンセリングとは何かー変化するということー 東畑開人』簡易感想

こちらの本の簡易的感想です。

ざっくり内容紹介

カウンセリングという、統一的な基盤がなく、複雑怪奇で不可解な営みを、何とか体系化し、日常な言葉に落とし込んでわかりやすく説明しようと試みた本、です。

カウンセリングとは本来的に個別的なものであるが故、本書では、事例を通して具体的な流れを紹介しながら、帰納的に、徐々に輪郭を浮かび上がらせていく構成になっています。

簡易感想

コミュニケーターとしての価値ある1冊

以前感想を書いた、信田さよ子さんの『なぜ人は自分を責めてしまうのか』では「当事者の言葉を専門家が奪っていってしまう」と書かれてありました。

本書は、専門的な内容を日常的な言葉に落とし込んで、わかりやすく書いてくださっており、専門家と当事者の間の距離を少し縮めてくれる本なのではないかな、と思います。

その点を考慮すると、一般人と専門家の橋渡し的な役割≒コミュニケーター的な本として、非常に価値のある一冊だと思いました。

何もしない、ただ聞くだけ、の不思議

本書のあとがきには「何もしない、ただ聞くだけ」という行為の、効能の不思議について書かれています。

くしくも先ほど紹介した、信田さよ子さんの『なぜ人は自分を責めてしまうのか』でも、オープンダイアローグやグループカウンセリングなどでの、同様の効果が書かれていました。

メカニズムや因果は本当に不思議そのものですが、やはり共通しているのは人とのつながりなのだな、と改めて感じました。

おわりに

新書で400ページ越えの本ですが、読書の習慣のない方でも、とても読みやすい一冊だと思います。

また、カウンセリングとは何か、について知ることで、自身を客観視することや、セルフカウンセリングをすることにも、繋がるのではないかな、と思いました。

内容をまとめるのに、ルーズリーフ6枚も使ったので、本当はもっと書きたいことがたくさんありますが、内容の深部に踏み込みすぎてしまうため、控えたいと思います。

ぜひ本書を購入して、読んでみることをお薦めします。

非常に価値のある本を世に送り出してくださり、著者の東畑さんには、心から感謝致します。

ありがとうございました。

大手企業所属Vtuberさんの炎上について考えたこと~「誹謗中傷か感想か」の議論を超えて~

大手企業所属Vtuberさんの、SNS上でのやりとりが物議を醸していました。

その問題ついての考察を通し、Vtuberさんとリスナーさん双方にとっての健全な活動環境を醸成する方法ついて、あれこれ考えたことを書いた記事です。

問題の概要

以下の記事をご覧ください。

www.inside-games.jp

結論

この記事の結論は、

「色々あったけど、誹謗中傷か感想か、のラベリングにこだわるより、心構えとか伝え方を工夫するなどして、まずリスナー側から働きかけて、お互いの健全な活動環境を築いていきませんか」という提案

です。

それではご覧ください。

誹謗中傷か感想か

誹謗中傷か感想か、賛否が分かれています。

Vtuberさんは、受け手の主観が基準だと主張されていました。

しかし、客観性も判断基準に含まれるはずなので、断定はできないと思います。

また、事実と異なるかどうかも、判断が難しそうです。

上っ面かどうかは主観的評価(経験的事実)であり、それぞれの内面について、客観的事実かどうかの判定は困難なのではないか、と思いました。

ただ、この判定について厳密に検証することも重要ではあるのですが、それと同じくらい大事な、目指すべき大目的、上位価値があるのではないか、とは思います。

それについては後述します。

リスナーさんのポストの内容について

事の発端となった、リスナーさんのポストの内容について、賛否が分かれています。

どのような問題点があったのでしょうか。

私が最も問題視しているのは、配慮が不十分な言葉選びにより、不誠実さの存在を断定した、と解釈できてしまう点です。

ポスト内容は、次の2通りの解釈が可能だと思います。

①ゲームを楽しむ技術が未熟、あるいは不足しており(こなしてる、上っ面撫でる)、その力量が、ゲームによっては伝わりやすくなってしまう(バレる)

技術面の巧拙とその伝わりやすさ、です。

 

そして、もう一つの解釈は、

②ゲームへの姿勢として、作品へのリスペクトや丁寧さを欠いた不誠実な気持ちや、あるべき誠実さを欠いた気持ちでプレイ(こなしてる、上っ面撫でる)しており、ゲームによっては、その不誠実さが隠せていない(バレる)

つまり、相手の内面の否定的断定とその露呈、です。

このような解釈も出来てしまいます。

 

ただ「上っ面に感じた」だけであれば、自分(リスナーさん)の内面について述べている側面が強いです。

しかし、先のリスナーさんのポストでは、

  • 相手(Vtuberさん)の内面について
  • 否定的要素(上っ面≒不誠実さ)の存在を断定し
  • それが真である前提で、自分の内面(バレやすさについての感じ方・評価)を述べた

という文章構成にも見えてしまうのです。

これは仕事で例えると、職場の同僚から「最近、仕事の出来が悪いぞ」と言われるのと「最近、仕事の手を抜いているのバレてるぞ」と言われることとの違いに近いものです。

努力の姿勢が、結果や評価に繋がらないことはまだ許容できますが、そもそも、努力の姿勢自体を持っていない、偽りがある、と断定されるのは、なかなかにつらく、悲しいことではないでしょうか。

 

恐らくですが、リスナーさんは①の解釈の意味でポストしたのだと思っています。

しかし、言葉選びに十分な丁寧さを欠いてしまっていたため、このようなすれ違いを生んでしまったのだと思います。

この点が、本ポストの問題点の本質であり、その点において、Vtuberさんは強いネガティブな感情を持ったのではないかな、と考えました。

リプライの内容について

Vtuberさんのリプライの内容についてです。

理想を言えば、感情を抑えて、自身の思いや考えを、理性的に返信できていればよかった、と第三者目線からは言えます。

ただ、個人的には、言い返したくなる気持ちには強く共感します。

自分が同じ状況に置かれた場合に、咄嗟に言い返すことも十分あり得るな、とも思います。

Vtuberさん、とりわけ大手企業所属の方は、表では見えていないところで、様々な心ない言葉を日常的に受けているでしょうから、それらが積み重なったが故の、今回の発言という側面もあるでしょう。

そういう意味で、Vtuberさんには同情してしまいます。

ですので、お相手の動機や、透けて見える人間性などにもよりますが、時には言い返す選択肢を持っていても良いのではないか、とは思ってしまいます。

リプライ自体の是非について

本問題では、ハッシュタグがなく、直接のリプライでもないポストに対して、Vtuberさんがリプライをしたことも、問題視されています。

結論、私の考えは、「許容範囲である」です。

理由は

  1. ハッシュタグがなく、直リプでもなかったとしても、Vtuberさんのサービスの利用方法(エゴサ&リプライ)は、技術仕様上、通常の利用方法の範囲内であり、問題のある方法とは言えないこと
  2. ユーザー側も、閲覧・返信の可能性を十分に考慮したポストができていなかった点や、個人名を含んでいた点において、相応の配慮が必要だったと考えること

の2点です。

よって、Vtuberさん側の問題はまったくないとまでは言えなくても、小さいと言えると考えます。

ファンネル攻撃への配慮について

自身の影響力を考えずにリプライしたことも、一つの問題点として挙げられています。

結果的にですが、ファンネル攻撃というものを誘発してしまいました。

※ファンネル攻撃とは

  1. Vtuberさんへのネガティブな発言をしたユーザーへ、Vtuberさんが何らかの反応をする
  2. その反応を見た複数のユーザーが、ネガティブ発言の主へ、攻撃的だったり、非難をするような発言をする

このような攻撃のことを指すようです。

ファンネル攻撃を招いてしまった責任は、一定程度あるとは思います。

しかし、Vtuberさん自身の責任は重くはないと考えています。

理由は

  1. リポストやスクリーンショットによる拡散ではなく、不快な発言をしたユーザー個人への閉鎖的リプライであり、拡散によるファンネル攻撃の意図はなかっただろうと推察されること
  2. ファンネル攻撃の責任の大部分は、実行したユーザー自身にあること

の2点です。

もし、ファンの方が正義感から行ったのだとしたら、事態が複雑化・重大化して、ただの悪化につながる可能性が高いため、今後は控えたほうが良いでしょう。

ファンを装ったアンチや、単なる愉快犯の場合は、行動改善は一朝一夕には実現できず、地味で地道な、辛抱強い対話や空気作りが求められると思います。

それだけで記事数本分になってしまうため、割愛します。

「誹謗中傷」と感じる、について

Vtuberさんが、長文ポスト内で「誹謗中傷」と感じる、と述べたことについても賛否を呼んでいます。

これについては、もっと慎重に言葉を選ぶべきでした。

理由は

  1. 法的措置も含む、誹謗中傷等への具体的対応実績がある企業に所属しており、「誹謗中傷」という言葉を使用することで、受け手へ強い心理的圧力を与える可能性があること

です。

法的措置等の現実性は置いておいても、誹謗中傷という言葉の重みや、ご自身の立場(影響力)への配慮が十分ではなかった、と言えるでしょう。

目指すべき上位価値

ここまで、いくつかの論点について私見を述べました。

これらについて、より厳密に考えることも、重要なことではあると思います。

ですが、例えば誹謗中傷か感想か、ということについて、多くの労力と時間を割いて白黒つけることにこだわるのは、本問題における本質的な部分に関わることなのでしょうか。

もし誹謗中傷ではないと確定したら、相手が不快になろうと、今後はかまわず言い続ける、ということになるのでしょうか。

逆に誹謗中傷に該当した場合、ちょっとでも不快だと感じる、似たような発言を見かけたら、片っ端から法的措置を講じるのでしょうか。

それによって、当事者や周りも納得し、問題が解消されるのでしょうか。

そこにこだわるよりも、同じかそれ以上に大事な、目指すべき上位価値、大目的というものがあるのではないでしょうか。

 

それは、お互いの理解と納得、歩み寄りであり、可能な限りの、お互いの満足の最大化と、不満の最小化の両立を実現することにあるはずです。

様々なトレードオフ関係が存在する中で、最適な落としどころを見つけ、お互いが気持ち良く活動できる状態を実現することであるはずです。

どちらかが一方的に我慢しなければならない状況・環境を是とし、強要するのは、現代における成熟したコミュニケーションでも、態度でも、姿勢でもない、と思います。

ですから、そういった上位価値の実現に向けて具体的アクションを起こしていくことのほうが重要だと、私は考えます。

健全な活動環境に向けてのアクション

では、より具体的に、健全な活動環境醸成へ向けて、どんなアクションを行っていけばよいのかを述べます。

ですが、その前に2点、大事な点を付け加えておきます。

  1. リスナー側のアクションについてのみ述べています。
    (理由については後述します。)
  2. これらのアクションは、私自身の戒めとしての意味もあり、現在進行形で失敗もしながら、試行錯誤している最中のものです。
    正直なところ、私もこれらのアクションを完璧に実践できている自信はありません。

その点を踏まえたうえでご覧いただけると幸いです。

心構え編(考え方・捉え方の工夫)

まずは心構えです。

  1. Vtuberさんの主体性の尊重
  2. 影響・背景・第三者の切り口で、想像力を働かせる

の2つの軸がポイントです。

Vtuberさんの主体性の尊重

基本的には、Vtuberさんの主体性を尊重し、自由な活動を楽しみましょう

否定的意見・感想を伝えるのは、健全な応援をし続け、関係性が築けてきてから

さらに、聞かれたとき、望んでいるとき。

そのうえで、十分な丁寧さ、配慮を重ねて伝える。

このようなスタンスでいるのがちょうどよい距離感でしょう。

特に、有名なVtuberさんだと、膨大な数の意見や要望が日常的に寄せられ、正直、食傷気味だと思います。

もちろん、このスタンスにもトレードオフが発生します。

リスナーさんの意見・感想にも、よりよい活動のためのヒントとなるものもあるからです。

ですが、受け入れるかどうか、最終的な結果責任を引き受けるのは、Vtuberさん自身です。

我々が、Vtuberさんの人生の責任を持てることなど、ほとんど在り得ません。

さらに、レッドオーシャンのVtuber業界で、やりたい(主体性)だけで活動しているVtuberさんは、ほとんどいらっしゃらないはず。

やりたい(主体性)と、やれる(能力)、やるべき(需要)の3つのバランスを常に考えながら、活動しているVtuberさんがほとんどだと思います。

我々が意見する程度のことは、だいたいVtuberさんは既に考えていると思っておく、と良いでしょう。

ですから、Vtuberさんの活動内容に踏み込みすぎず、静かに見守るぐらいがベターと考えます。

影響・背景・第三者の切り口で、想像力を働かせる

影響・背景・第三者の存在、という3つの切り口で、想像力を働かせることが大事だと思います。

これは、予防的側面や、事後的にも攻撃性の緩和のために有効な心構えとして機能します。

 

まず影響です。意味は分かりやすいですが、実際を想像するのは難しいですよね。

一旦、逆の立場を想像してみるのが良いと思います。

例えば、ポストする前に、もし自分がVtuberで、同じXのポストをもらったらどう思うか、を想像する。

それだけで、結構違ってくるのではないかな、と思います。

 

次に背景ですが、これは直接の原因ではなく、より背後にある原因を想像する、ということです。

例えば、「なぜ感想とも捉えられるポストに、感情的に反応したのか」を考えると、もちろん直接の原因は、本人にとって、不快な内容のポストを見たから、です。

では、背後にある原因は何でしょうか。

例えば、先ほども書きましたが、大手企業所属のVtuberさんともなれば、日常的に心無い言葉を受けることが多く、何度も傷ついてきた、というようなことが考えられます
それに対するストレス、怒りが募っていたため、さすがに耐えられなくなったのかもしれません。

また、配信、収録、企業案件、グッズ展開など、非常に多忙なスケジュールをこなしているでしょう。

ゲーム配信一つとっても、ただ配信をすれば良いわけでなく、サムネイル作りや、知的財産権・関連事項への、入念な確認も必要です。
この「多忙さ」や、それによる「心身の疲弊」、常に追い立てられ、期待に応えなければならない「心理的圧力」、そうならざるを得ない「業界の構造的問題」なども、背景として考えられます。

つまり、タレントさん個人の内側の問題だけではなく、問題を外に見出してみる、ということです。

これが、背景を考える際のコツであり、問題の外在化と言います。

これらは、我々リスナーがどうこうできる問題ではないため、想像しても無意味なのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。

先ほど書いたように、予防的側面や、事後的な攻撃性の緩和のために有効な側面があります。

どういうことかというと、例えば、今回のようなことが起きても、事情(多忙さと心身の疲弊、日常的な心無い言葉など)を想像することで「まぁそうなるのもちょっとわかるわ」と共感を生み、当事者以外の第三者による攻撃性が緩和される、ということです。

 

このような想像ができると、ちょっと優しい世界になれるのではないかな、と思います。

 

そして、第三者の存在です。

これは、影響力と一部重なりますが、価値の多様性を想像する、という意味です。

例えば、あるリスナーさんにとっての、理想的なゲームへの向き合い方があって「このような深い楽しみが出来ていなければならない」と考えていたとします。

しかし、人によって「深い」の方向性は様々ですし、深い楽しみだけが、唯一絶対のゲームの楽しみ方とも言い切れません。

他のリスナーさんの中には、深い楽しみ方よりも、Vtuberさんが自由に、楽しくゲームプレイをされる配信そのものを好む方もいらっしゃるはず。

このように、自分以外の第三者の存在を想像することで、価値の多様さを認識するきっかけになる可能性があると考えます。

そうすることで、相手への伝え方が柔らかくなったり、建設的内容になったりする効果が期待できるのではないでしょうか。

技術編(伝え方の工夫)

技術編(伝える内容や方法の工夫)です。

心構え編をもとに、感想や意見を述べる際に、実際にどんな内容の文章を書いたら良いのか、ということについてお伝えします。

ポイントは

  1. 控えめな建設的提案
  2. 自身のポジティブな経験・体験の伝達

です。

 

例えば、今回不快な発言をしたポスト主は「自分の好きなゲームを、表面だけで、作業的にこなしてプレイしている!不快だ!」と感じたから、あのようなポストをした、と仮定します。

そのような場合には、上っ面だとか、作業的だとか、浅い、といった内容を伝える代わりに、より深くゲームを楽しめる方法だとか、ゲームの奥深さや魅力について、強制しない形で伝える内容のポストをすると良い、のではないでしょうか。

一例です。

〇〇(Vtuberさん)さんのゲーム配信見て、懐かしい気持ちになった。
今回の✖✖のシーン、初見では意味わからんかったけど、あとで考察サイトで調べたら、△△(キャラ)のあの発言、裏の意味があったって知って、当時鳥肌立ったの思い出したわ(笑)。

ネタバレになるから詳細は伏せるけど、世界観の作り込みえぐいから、特に人間関係の設定を深堀っていくと、もっとハマれそうな気がする。

というような形で伝えられれば、受け手は悪い気はしないのではないかな、と思います。

上記の文章で、各ポイントは、

  • 控えめな提案(~気がする)
  • 建設的(否定(上っ面)→魅力(世界観)・理想(設定の深堀り)への変換)
  • ポジティブな体験・経験の伝達(~知って、当時鳥肌立った~)

という形で当てはまります。

(※数学がお好きな方向けにお伝えすると、この手法は『対偶的伝達』と表現するとわかりやすいかもしれません。勝手にネーミングしました。)

念を押しておきますと、あくまでVtuberさんの自主性の尊重が基本です。

Vtuberさんにとっては、望んでもいないのに提案されても、余計なお世話だったり、指示だと感じられる可能性もあります。

どうしても伝えたいことがある場合には、上記のような伝え方が良いでしょう、というぐらいの認識で考えていただけると幸いです。

もしよろしければ、参考になさってみて下さい。

Vtuber側に肩を持ちすぎでは?

もしかしたら、お読みになっている方の中には「リスナーばかりに求めすぎでは?」「Vtuber側から変わるべき部分もあるのでは?」とお考えの方もいらっしゃるかもしれません。

おっしゃる通りそれは正論で、偏った主張であることは認めます。

先程書いたように、多少不快でも、活動の質的向上のヒントになる場合もあるため、リスナーさんからの意見などを受け入れたほうが良い、という考え方もできます。

リスナーさん側に過度な負担を求めると、ハードルが上がって気軽に意見ができなくなり、それがVtuber業界全体を衰退させることに繋がる、とも考えられます。

やはり、トレードオフなのだと思います。

ですが、たとえば本問題の事例を通して、Vtuberさん側が、理性的に返信できていればよかった、無視をするのが最善だった、感情と内容を切り分けて一つの感想として受け取るのがプロとしてあるべき対応だった、と一般的な正論を書くことはできます。

しかし、恐らくそれぐらいのことは、Vtuberさん側もわかっていて、それでもなお、抑えられなかった、ということなのだと思うのです。

過重労働や、蓄積されたストレス・疲労、慢性的な睡眠不足等で、心身ともに疲弊しているであろう人に、ただ正論をぶつけるという行為は、果たしてどこまで意味があるのだろうか、と思ったのです。

それに「お前が変われ」と言い続けているだけでは、事態は平行線のままか、さらに泥沼化していく可能性もあります。

それより、一時的に負荷があっても、リスナー側から変わろうと働きかけ、丁寧で配慮の行き届いた建設的な関わり・言葉が広まっていけば、いずれVtuberさん側も、その気遣いや配慮を感じ取ったり、心の余裕が生まれたりすることで、リスナー側の多少不快な内容の意見にも、耳を傾けてくれるようになったりするかもしれません。

ですから、改めて提案したいのです。

「リスナー側から働きかけて、お互いの健全な活動環境を築いていきませんか」と。

おわりに

この記事のコンセプトは、相田みつをさんの「セトモノ」という詩から来ています。

もし、よろしければ調べてみて下さい。

ネット空間と言えど、現実の人間関係の延長です。

やわらかい心を持って、人と関わっていきたいと思います。

(自身が、セトモノにならないように気を付ける必要はありますが…。)

ここまで、長文を読んでいただきありがとうございました。

本記事が、Vtuberさん、リスナーさん双方にとって、良好な活動環境醸成の一助になれていたら幸いです。

ANYCOLORさんの意識調査について考えたこと

VTuberグループ「にじさんじ」を運営するANYCOLORさんが、誹謗中傷対策の一環として実施した意識調査について、考えたことを記した記事です。www.j-cast.com

価値の大きい取り組み

今回の意識調査は、従来の対応からさらに一歩踏み込んだ、価値ある取り組みだと思います。
Xでのポストなどを見ても、肯定的意見や称賛の声が多く見られました。

より実効性を確保するために

誹謗中傷行為等への効果的な対策へ向け、根本的な原因や背景を多角的に理解するにあたり、こうすることでより実効性が確保できるのではないか、と思った点がいくつかあります。

それは、

  1. 専門家の協力
  2. 対面での意識調査

の2点です。以下で詳説します。

①専門家の協力

専門家の協力があることで、より根本的な原因や背景への多角的な理解につながるのではないか、と考えます。

今回の意識調査における回答者(加害者)の回答を見てみると、とても洗練化された文章が掲載されています。

回答者の言語化能力も異常に高く、事実認識、内省や自己分析、謝罪までの流れが、脚本化されたかのように非常に整っています。

恐らくですが、弁護士等の助言のもと、整備された文章なのでしょう。

ただ、そうだとしたら、本当に回答者の反省を促せたのか、あるいは根本原因に迫ることができたのか、という点はやや懸念されます。

取り繕い、事後的な自己正当化の可能性もあり得ます。また、承認欲求など、わかりやすく単純化された原因に帰結されている印象も受けます。

そこで、やはり専門家(例えば心理学者など)が必要になると思います。

回答に対しての、広範かつ深い分析や、あるいは回答者(加害者)自身へのアセスメント(理解力の程度や認知特性、価値観や規範意識など)により、より根本原因に迫っていくことができるのではないか、と考えました。

②対面でのヒアリング

専門家による対面でのヒアリングも、必要だと考えます。

今回は書面での質疑応答となりましたが、対面で行われたほうが望ましいでしょう。

対面での質疑応答であれば、書面には表れない表情や声色、微妙な感情の揺れなど、そこから透けて見える様々な非言語的な要素を捉えることができるでしょう。

また、回答に対して、深堀りしたい点などが出てきた場合にさらに聞き返したり、リアルタイムに臨機応変に対応でき、より根本原因に迫ることができるのではないか、と考えました。

善は微に入り細にわたって行わねばならない

善は微に入り細にわたって行わねばならない、という言葉があります。

心理学者の河合隼雄さんのお言葉です。

今回のANYCOLORさんの取り組みは、大まかな方向性として大賛成であり、素晴らしい取り組みだと思います。

そして、専門家による対面のヒアリングが実施されることで、より信憑性、正確性の担保された情報を提供することができ、価値ある啓発資料として多くの人に、誹謗中傷対策として蓋然性の高い認識を広めていくことができるでしょう。

それは延いては、誹謗中傷の根絶に向けた土壌の醸成に繋がっていくものと、信じております。

おわりに

根本原因や背景の多角的理解にあたり、そもそも設計段階で、専門家による協力があったほうが良いかもしれません。

VTuberさんを含むすべてのネットユーザーが、誹謗中傷から守られる社会の実現を強く願っております。

そのためにはまず、自分自身を省みる必要がありそうですが。

以上、承認欲求にまみれた机上の空論者でした。

 

Vtuberへの「傷つけない範囲での意見」の是非

とあるVTuberさんの配信を見ていたところ、リスナーさんから以下のような相談が届いたようで、配信内で紹介されていました。要約すると以下の通り。

企画やイベントへのタレントの不参加、方向性の違いによる卒業などの話題に対して、VTuber側は「妙な憶測や文句はNG」とリスナーへ注意喚起することがある。
しかし、客商売である以上、納得して飲み込めは違う気がする。
傷つけない範囲で意見を述べる権利はあると思うし、そのような意見が出てくるのも致し方ない。どう思いますか?

今回は、この相談について、あれこれ考えたことを書いた記事になります。

結論「控えたほうが良い」

私が出した結論は、基本的に「控えたほうが良い」です(特に憶測は)。

意見する権利、憶測する自由自体は、誰にでもあると思います。

ただ、例え傷つけない範囲であっても、言わないほうが良いと考えています。

理由は以下の通りです。

「傷つけない範囲」の主観性

傷つけない範囲での意見、というのは少なからず主観が含まれます

自分では冷静かつ理性的に意見しているつもりでも、客観的にそうではないケースも在り得ます。

お相手の受け取り方次第である部分も大きく、意図せず傷つけてしまう可能性もあります。

非常に高度な感情制御や言葉選びの技術が問われるため、意見する場合は、肯定的な内容の場合に留めたほうが無難だと考えました。

 

不特定多数の暴力性

インターネットは不特定多数の方が利用しているため、タレントさん、あるいは運営などの小集団への意見であっても、不特定多数による暴力性を帯びる可能性があります。

リスナー側は一対一で意見している感覚があるかもしれませんが、それを受け取るタレントさん、運営さんは、匿名の、大量の意見を受け取ることになります。

受け手への強い心理的圧力になる可能性があるため、やはり控えたほうが無難だと考えます。

自己決定感の重要性

意見は、タレントさんや運営さんへ、変容や改善を求めてなされるものだと思います。

しかし、あれやこれや外部から言うような、外発的要因では、人はなかなか変わらないものです。

なぜなら、人が納得して行動する重要な要素の一つが、自己決定感にあるのではないか、と思っているからです。

私の観測範囲で恐縮ですが、現実世界でもそうでしたし、明確な目標や夢のあるVTuberさんならなおのこと、一般の方よりも強い自己決定感が必要なお方も、多いのではないでしょうか。

自己決定感が薄ければ納得には繋がりにくいため、意見によって相手の変容や改善を期待するのは、あまり得策ではないのでは、というのが私の考えです。

動機の妥当性

意見や憶測をオンライン上で表明する動機の妥当性も、控えたほうが良いとする根拠の一つです。

何を言っているかというと、その意見や憶測は、本当にタレントさんのことを中心に思いやった動機から発せられているのか、ということです。

言い換えれば、承認欲求や自己顕示欲、単なる興味本位や、(数字稼ぎなどの)利己的動機、自己都合の支配欲など、別の動機も少なからず混在してないか、ということです。

それらの比率が高い場合には、建設的な意見や、価値のある憶測とはなりにくい印象がありますし、権利や資格という観点からも、やや疑問を感じます。

それらを自覚できずに表明してしまうリスクもありますから、やはり基本的には意見や憶測の表明は控えたほうがいいだろうと考えます。

ヘビーリスナーのケース

タレントさんを長年応援しているヘビーリスナーさんの場合はどうでしょうか。

好きだからこそ、本当に応援しているからこその意見表明というケースもあるかと思われます。

時間もお金も労力も、長年掛けてきたお方のケースです。

このケースは、一般リスナーに比べれば、権利や資格という観点では一定の妥当性はありそうな気もします。

ですが、やはりこれまで述べてきた理由により、基本的には控えたほうが妥当だと思われます。

ですが、どうしても伝えたい場合は、主観だけでなく、客観的な妥当性も注意深く吟味しつつ、余計な詮索を排除した、応援をベースとした内容(〇〇してくれたら嬉しいです!等)で伝えるのが良いかもしれません。

不誠実な対応のケース

タレントさん側が、不誠実な対応をしていた場合は、どうでしょうか。

例えば、正当な理由なく、約束を反故にしてしまうようなケースです。

その場合は、さすがに意見表明をされても致し方ないかなと。

ですが、このケースでも、理由が不明確なケースも少なくなく、感情的な決めつけはせずに、あくまで事実ベースで、理性的に表明する必要はあるでしょう。

おわりに

結局、意見の対象の程度や質、意見の内容の程度や質による、という抽象的な結論だとは思います。

ここで述べた内容は、まぁ恐らくほとんどのリスナーさんには改めて確認する必要もないようなことだと思いますが、自己満足で書いてしまいました。

以上、承認欲求と自己顕示欲にまみれた、机上の空論でした。